等身大
熱が出た。久我山から池袋、大学まで行って海浜幕張まで帰った。ベースとpc持って1時間以上歩いたよー。
家までの道で、懐かしい感じがした。
感覚の記憶って頭の記憶より優秀だよね。
中学生の時受験日にインフルになったこと(隠蔽受験した)
高2の冬、学校で発熱して海の向かい風に凍えながら自転車漕いだこと
風邪を引くと決まってお母さんが優しくなる。遊びに行って免疫落とした自分が悪いのに、幕張から久我山までご飯届けてくれたこともあったな。今日も同じだったけど優しかった。
コロナもインフルも、移されるよりさきちゃんと離れる方が嫌って部屋に入って頭を撫でてくれる。
全部辛い記憶だけど、その隣にはお母さんがいるなー。絶対に自分の利益にならないのに、守ってくれる。無条件の愛ってやつなんだろうか。
母親より強い人間はいないと思う。
知らんけど
死ぬことはある種の美学だと思う。
人が死を通過したときの
何か神秘的な、
哀愁なのか
まだこの気持ちの正体をを掴めてない。
青い春の映画で青木が死んだ時、初めて青木がかっこいいと思った。
これは、死んだ事実がかっこいいと思ったわけではなくて
青木の生き様、心境の変化、死んだ事実、今後の青木の周りの人間のことを考える。
そして哀愁のような不明なアレを感じて
結果的にかっこいいが1番近いかな、と当てはめた結果になるけど
人には色々な考え方があるので
「死んで神格化されるなら生きて伝説になれ」
とか諸々意見があるけど
自分は、この何とも言えないかっこよさが好きなので
変な言い方になるけど割と、死ぬ瞬間が楽しみでもある。
かといって早く死にたいわけではないけどね
闘争の果てに
自分が嫌いになる瞬間がある。
人と衝突すると、きまって自分がたちまち嫌になる。
人とぶつかる時、相手を傷つけるつもりなんか毛頭なくて自分をわかって欲しいし相手をわかりたいなって思う。
ぶつかりたいんじゃなくて折衷点を探したい。
このスタンスでいるけどなかなかうまくいかない。
相手とのキャッチボールで、自分の器が小さいあまり感情に負けて変化球で返してしまう。
取りやすく投げたつもりのボールが豪速球で帰ってくる。
こんなことだらけで心がボロボロになる。
自分は大人になりきれなくて、折衷点を見つける前に傷ついてだいたいピーピー泣く。(もうハタチなのに…)
でも、悲観はしていない。
各々が本気でやっている故の衝突なのは分かっている。
それに今だけを点で見ると、感情が無茶苦茶でマイナスの点にいる。でも過去未来と線で繋いで今を相対的に見ると多分何かの過程であってこの苦悩は絶対にその何かに生きる。
なんでこんなことが言えるかって、思い返すとそんなことばっかだったからなのだ。😼
だからこの自己嫌悪もいつか「そんな時もあったなあ」って思える。といいな。笑
今、これに限らず色んなことで先が見えなくて正直参ってた。
だけどもほどほどに、今に囚われないようにいられたらいいなーって思う。
ちいかわのサムネ見てしまった人は忘れて